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ソフトウェア開発になぜ「物語」が必要なのか?定性的研究が解き明かす数値の向こう側

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ソフトウェア開発の現場では、生産性や品質を測るために多くの「数値」が使われます。しかし、コード行数やバグの件数、ベロシティといった定量的なデータだけで、開発チームが抱える課題のすべてを理解することはできるでしょうか?「なぜ」チームの士気が下がっているのか、「どのように」意思決定が行われたのかといった人間中心の疑問に対し、数値は必ずしも答えを持っていません。

本記事では、ACM SIGSOFT SEN-ESE Columnに掲載された記事「The Human Need for Storytelling: Reflections on Qualitative Software Engineering Research With a Focus Group of Experts」に基づき、3名の専門家による座談会の内容を紹介します。ソフトウェア工学における定性的研究(Qualitative Research)がなぜ重要なのか、そして生成AI時代において私たちが直面する新たな課題について、彼らの深い洞察を紐解いていきます。

1. 数値だけでは見えない開発現場の「なぜ」を解明する

ソフトウェア開発は、本質的に人間による活動です。この当たり前の事実こそが、定性的研究(インタビューや観察など)が必要とされる最大の理由です。

人間行動を理解するための不可欠なアプローチ

メリーランド大学バルチモア郡校のCarolyn Seaman教授は、ソフトウェア開発における「人間」の要素を強調します。ソフトウェアは自然発生するものではなく、人間が作るものです。そのため、開発プロセスを研究することは、すなわち人間行動を研究することに他なりません。

ソフトウェア開発の大部分は人間と人間の行動に関するものであり、人間は定量化することが難しいことで知られています。定量的手法だけに頼ると、人々について、そして私たちが物事をどのように行っているかについての多くの情報を見逃してしまいます。

探索と理解:定量的手法では届かない領域へ

ユニバーシティ・カレッジ・コークのKlaas Stol教授は、定量的手法と定性的手法の違いを、答えられる「問い」の種類の違いとして説明します。標準的な統計テスト(t検定など)は特定のタイプの質問には答えられますが、新しいアイデアの探索や、現象のメカニズムの理解には不向きです。

推測で物事を判断するのではなく、「現場に行って人々と話し、観察する」ことでしか得られない理解があります。Klaas氏は、これを「推測しようとするのではなく、情報源に行くこと」と表現しています。

物語(ストーリーテリング)への根源的な欲求

モナッシュ大学のRashina Hoda教授は、定性的研究の中心にある「ストーリーテリング」の力を強調します。

洞窟に住んでいた時代にまで遡れば、洞窟の壁に物語が描かれているのが見つかります。人々には物語を記録し、伝えたいという固有の欲求があり、それは研究にも広がっていると思います。

定量的なデータでも物語を語ることは可能ですが、インタビューからの引用や観察記録といった「生データ」がもたらす文脈の豊かさは、数値には代えがたいものです。Rashina氏は、定性的研究を「実際の生きた経験への窓」と表現し、そこに人間味のある物語としての価値を見出しています。

2. 現場は「自分たちの物語」を求めている

定性的研究は、アカデミアの中だけで完結するものではありません。むしろ、企業の開発現場で働くエンジニアやマネージャーとの間にこそ、強力な共鳴を生み出します。

現場を映し出す「鏡」としての研究

Klaas氏は、企業が定性的研究に参加する動機について、「自分たちの姿を鏡のように見せてくれるからだ」と述べています。研究者が現場に入り込み、何が起きているかを記録し、それを反映して見せることで、企業は自らのプロセスを客観的に理解することができます。

「アジャイル」などのバズワードの実態を暴く

Rashina氏の経験によれば、定性的研究は業界で飛び交うバズワード(例:自己組織化チーム、スクラムマスターなど)の「実態」を理解する上で大きな力を発揮します。「本にはこう書いてある」という理想と、「実際にはこうしている」という現実のギャップを埋めることができるのは、定性的研究ならではの強みです。

私が現場の方々にインタビューや観察の結果を話し、何が実際に機能し、何が機能しないのかという彼らの物語を聞く時間は、純粋な至福の時でした。

Rashina氏が調査結果をエンジニアのコミュニティやアジャイルカンファレンスで発表した際、参加者は「自分たちの物語がそこにある」と感じ、強く共感しました。現場のプロフェッショナルたちが価値を認めてくれる瞬間こそが、研究の正しさを証明していたのです。

3. 生成AIは定性的研究の脅威か、ツールか?

ChatGPTに代表される生成AIや大規模言語モデルの台頭は、定性的研究の世界にも波紋を広げています。専門家たちは、AIの活用に対して慎重かつ批判的な視点を持っています。

分析プロセス自体が「学習」である

Klaas氏は、インタビューのトランスクリプト(書き起こし)をAIにアップロードし、要約やテーマ分析をさせることに対して、「要点を見逃している」と批判的です。

あなたは学習を通じて知識を得ているのではなく、ただトランスクリプトの要約を得ているだけです。(中略)定性的研究を行った人は、自分が学んだことすべてについて話すことができます。

自らデータに触れ、悩み、分析するプロセスそのものが、深い洞察を得るためには不可欠です。AIによる安易な要約は、その学習機会を奪ってしまいます。

「平均化」される人間味

Rashina氏は、LLMが定性的研究の核心である「人間味」や「独自性」を損なう可能性を危惧しています。LLMは「平均的な人間」をシミュレートしようとしますが、定性的研究が捉えようとしているのは、平均化されない個別の生きた経験です。

私たち定性的研究者は、すべてのデータが通過するフィルターです。私たちが研究対象について語る物語には、私たちが深く関わっています。LLMを使うと、そのすべてが剥ぎ取られてしまいます。

異なる「バイアス」のシミュレーションという可能性

一方で、Carolyn氏はAI活用の可能性として、「異なる研究者バイアス」をシミュレーションするアイデアを挙げています。AIに異なるペルソナ(役割)を与え、同じデータを分析させたときにどのような違いが出るかを見ることは、分析者のバイアスを客観視する上で興味深い実験になるかもしれません。

結論:AI時代だからこそ、人間の洞察と物語を

専門家たちの議論から見えてくるのは、テクノロジーが進化しても変わらない「人間による理解」の重要性です。

  • 定性的アプローチの価値: 数値化できない人間行動や文脈を「探索」し、「理解」するために不可欠。
  • 現場との連携: 現場の「リアルな物語」を可視化することで、エンジニアたちと共鳴し、改善へのヒントを与える。
  • AIとの付き合い方: 効率化のために分析プロセスをAIに丸投げするのではなく、人間自身がデータというフィルターを通すことで得られる洞察を大切にする。

ソフトウェア開発が人間によって行われる以上、そこには常に物語があります。その物語に耳を傾け、深く理解しようとする姿勢こそが、これからのソフトウェア開発の現場改善において、より一層求められていくでしょう。


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参考資料:

Author: vonxai編集部

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